三角 泰利 の日記
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ひふみ神示│地震の巻.005②
2021.03.07
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悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるものではない。
何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来たす場合もあるが、それはいずれもが弥栄である。
これを死後の生活にうつされた場合もまた同様である。
要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄は無いのである。
この一貫して弥栄し、大歓喜より大大歓喜に、さらに超大歓喜に向かって弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。
しかし、天国や極楽があると思念することは、すでに無き地獄を自ら作り出し、生み出す因(もと)である。
本来無きものを作り出し、一を二に分ける。
だが、分けることによって力(ちから)を生み弥栄する。
地獄無き所に天国は無い。
天国を思念するところに地獄を生じるのである。
善を思念するが故に、悪を生み出すのである。
一あり二と分け、離れてまた、三と栄えるが故に歓喜が生まれる。
すなわち、一は二にして、二は三である。
生前であり、生後であり、死後であり、なおそれらのすべては⦿である。
⦿は渦巻きであり⦿であり、 ﹅ と集約される。
故に、これらのすべては無にして有である。
人の生後、すなわち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄するところに尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、
さらに三の段階へと弥栄浄化する。