三角 泰利 の日記
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「超古代日本語が地球共通語だった!」.5
2019.11.16
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「渡来説」も消える…北九州・平尾台で見つかっていた“日本原人”
時間軸を長くとっても同じだ。「日本列島の人類の居住は旧石器時代以降の渡来による」とされるが、日本列島には数十万年前から人間は住んでいたはずである。大分県の姫島や瀬戸内海の上島などからナウマン象の化石が出るのだから、「象がいれば人間も」の論理が生まれよう。北京原人やジャワ原人がいたとされる30万年以前から、日本列島に人間はいたはずである。「渡来説」は、単にその証拠になる人骨や化石が出てこないだけのことだ。ところが、実は、その証拠にもなる重要な物件がある。
これは発見のいきさつもあって、これまで部外には出ていない資料であったのだが、もう25年以上もたつし、発見届け義務などの責任いついてもとうの昔に時効になっているのだから、この際ここで公表しよう。
ところで、日本列島にいた最古の人間は「明石原人」とされている。昭和6年(1931)に発見され、北京原人などと同等の年代かも知れないものだが、戦時中の日本の国家思想「日本国民はすべて天孫である」という皇国史観の影響から、十分な研究もなされないまま化石骨を戦火で消失し、闇に葬り去られた(現在、30万年前~3万5000年前の旧人に属するとされている)。
その明石原人に匹敵する、いやはっきり「原人」と思われるたいへんな化石が、昭和40年代に北九州小倉区の郊外で見つかっていたのである。発見したのは福岡県立小倉高校の生物部に所属する洞窟調査班(ケイビングクラブ)であった。
当時は私も英語教論として小倉高校におり、また、西日本新聞の学芸論説や考古学関係の社会部原稿などを書いていたため、「これは日本の考古学や人類学を書き換えるかもしれない重要な資料だ。ぜひ書かせてほしい」と頼んだのだが、友人の博士号を持つ生物教諭から「教育委員会や警察機関などへの発見届けもしていなかったし、公表されると責任問題も発生し、非常に困ったことになる。もう少し待ってほしい」と言われれば、それはできなかった。
その「原人」は、小倉南区の石灰岩カルスト台地である平尾台の鍾乳洞を探索していた際、直系15センチ・短径10センチ・高さ10センチほどの子供の頭ほどの頭蓋骨の化石で見つけられたのだ。長い間鍾乳洞の水の中に浸かっていたことから、全体が石灰岩で覆われようになり、手に取って見ても鍾乳石か大理石でつくられた頭蓋骨のようだった。
平尾台は山口県の秋吉台と同時期のもので、古脇野湖という巨大な湖が秋吉台から平尾台までをすっぽりと包んでいた2億年も前からのものである。ご存知のように、鍾乳石が1ミリ伸びるのに10万年かかると言われる。ということは、頭蓋骨全体がすっぽりと数ミリの厚さの鍾乳石になるのには、その人間が鍾乳洞に迷う込んで死亡してから何十万年も経過したことになる。とすれば、これは、まさに「原人」といえるのではないか!