三角 泰利 の日記
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「超古代日本語が地球共通語だった!」.1
2019.11.12
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プロローグ
「平家の隠し財宝」騒動から始まったペトログラフの発見
昭和57年(1982年)3月、ときならぬ宝さがし騒ぎが持ち上がった。同月24日付け「山口新聞」が一面トップで、大正年間に下関市彦島の杉田山頂で見つかっていた不思議な模様のようなもののある岩について、地元の郷土史家の説「あの謎の絵文字は、平家が壇ノ浦の決選に備えて埋蔵していた財宝の隠し場所を示すもの」を掲載したからであった。
実際には、この謎の岩はこれから詳述する“ペトログラフ”(古代岩刻文字)であるのだが、私は超古代に誘い込み、超古代の謎のベールをはいていく道標となったことでは、確かに“宝”の隠し場所を示していたのかもしれない。
といっても、おっとり刀で私も宝探しに出かけたわけではない。なんと、紙面の8割も使った特集に驚いた、友人の西日本新聞下関支局長が私の電話してきたからだ。
「言語学の立場から、その郷土史家が発表したことが正しいかどうか調べてもらいたいんだ。県紙級の新聞とはいいえ、一面トップで報道されたことをわが社がまったく触れないというのも取材負けした感じもするしね。じっくり追跡調査してくれよ」
早速私は、野外調査仲間の木村敏定氏と共に、問題の「絵文字岩」とやらを見に行った。木村氏は小倉高校で一緒に勤務した同僚であると同時に、私が文部省科学研究の「九州の民窯総合調査」や「西日本地方の格天井絵馬の総合調査」など、大掛かりな研究を実施するときの相棒であった。何しろ、朝鮮や満州で関東軍の斥候隊長を務めたこともある元陸軍大尉という実践経験のある人だけに、その偵察・探索能力は抜群で、石仏であれ希少植物であれ、古墳であれ、私が探索したいものを説明すれば、ただちに山野でも海浜でも、その経験と勘にものをいわせて見事に目指すもののありかを突き止める特殊才能の持ち主であった。
退職後は一線美術会の会員画家として悠々自適の優雅な生活を送っておられたが、在職中から私の兄貴分であったせいで、たいていのことは即座に引き受けてくれる人だった。
その木村氏の道案内で、吉野哲夫支局長と一緒に、関門海峡の巌流島を眼下に見下ろす杉田山に登った私は、頂上にある1メートル角大の花崗岩に刻まれた不思議な文字とも文様ともつかぬものを初めてみたのである。